戦後GHQの財閥解体、過度の集中企業の排除命令で、昭和20年(1945年)、帝国水産統制株式会社の製氷・冷蔵工場を継承した日本冷蔵株式会社が誕生します。しかし当初は、戦争中戦災で全国の製氷能力の46%を喪失した状態で、ピーク時の製氷日産能力16,000㌧が8,500㌧に激減していました。極めて深刻な氷不足で、漁船用の水産氷も不足し貴重な魚をくさらせ、食料危機をも招いてしまっていました。
一方、海外から着のみ着のままの復員軍人として社員が続々と帰国します。飢えた社員の資金確保のため、昭和21年〜22年(1946年〜1947年)、全国でアイスキャンデーを造り、無配・遅配の給料の補填としました。しかしその後、インフレの激化で人工甘味料の確保も困難となり、アイスキャンデー製造も行き詰まってしまいます。
復興金融公庫が設立され、重点産業として製氷工場の再建に設備資金の45%を低金利で融資する支援が実施されたことで、設備の回復が急速に進みます。やがて昭和25年(1950年)に朝鮮動乱が発生し、GHQより在韓米軍兵士のための氷の大量生産および冷凍輸送が日本冷蔵に発注されます。当時日本冷蔵が有していた全冷凍運搬船は約10隻、廷154隻、製氷工場は九州、広島、大阪、名古屋、東京の20工場で、これらを駆使して昭和26年〜29年(1951年〜1954年)の4年間に90,000㌧の角氷を韓国へ輸送納入しました。当時韓国の氷が粗悪で非衛生的だったことでこの特需が発生し、そのおかげで日本冷蔵は戦後の疲弊から急速に立ち直ることができました。
アイスボックス時代
戦後、日本の製氷産業は陸上氷と水産氷の需要急増で、急速な成長を遂げました。昭和36年(1961年)には生産量のピークを迎えて、年間640㌧を記録するにまで至りました。その主な要因のひとつに、アイスボックスが普及があります。 陸上氷の比率が43%に達し、昭和30年代前半は製氷業界にとっては黄金時代でした。
家庭用電気冷蔵庫時代
その間、家庭電気冷蔵庫も急ピッチで普及します。昭和30年(1955年)には3万台、35年(1960年)には100万台、36年(1961年)の製氷量ピークの年でも160万台、38年(1963年)では300万台と、猛烈なスピードで普及したため、陸上氷は大幅に減少します。水産氷微増、陸上氷減少という形で45年(1970年)以降ほぼ横這いで推移している中、最近の傾向として見られるのが、飲料用など幅広く使われる、神奈川プライド32や氷屋純氷に代表されるプレミアム氷の急成長です。