氷の由来 〜氷業の始まり〜

海外の天然氷採取販売事業


米国ボストン市のフレデリックチュドールが1805年、天然氷採取販売事業を開始しました。当時は、西インド諸島(ジャマイカ島、マルチニック島)の黄熱病克服のため米国ニューイングランド北部の天然氷を機械化作業で大量採取し輸送していました。

1815年からハバナ、チャールストン、ニューオルレャンスにも輸送し、ニューオルレャンスには大貯氷庫を建設しました。 1833年には南米のリオデジャネイロ、東洋のインドカルカッタまで輸送するようになりました。 天然氷は厳冬の訪れるメイン州の河川湖沼で採取され、特にハドソン河の天然氷は良質な氷で有名で、その河岸には1880年貯氷庫が55棟も建設されました。

ハドソン河では1890年ニューヨークとアルバニー間に135棟の貯氷庫が並び、氷に関する会社法人や個人が60人ほどいました。医療や人命救助に貢献し、食糧貯蔵にも役立ち、かつ高収益な天然氷採取販売事業に従事するアイスマンは、誇り高き職業でした。

米国の天然氷生産は1806年の130㌧から、1872年には225,000㌧(1730倍)に膨れ上がりましたが、1900年には13,720㌧と、ピーク時の16分の1しか生産できない状況に陥りました。ヨーロッパにも米国氷が輸出され、英国のロンドン、リバプールには広大な貯氷庫が設けられ、年々数万㌧を輸送していました。しかし、1899年にノルウェー氷が50万㌧も進出し、暖冬で生産不能であった米氷は完全に駆逐されました。スエズ運河開通の大減産は冷凍機の進歩による機械製氷の発達に拍車をかけ、天然氷は約百年間の繁栄に別れを告げつつ漸次衰微していきました。

日本最初の氷水店


馬車道通常盤町五丁目に於て町田房造なるもの氷水店を開業す、当時は外国人稀に立寄、氷、又はアイスクリームを飲用す、本邦人は之を縦覧するのみ、店主為めに当初の目的を失し、大に損耗す、尚、 翌年四月、伊勢山皇太神宮大祭に際し、再び開業せしに頗る繁昌を極め、因て前年の失敗を恢復せりと、爾来、陸続来客ありて、恰も専売権を得たる如く繁栄を極めたり、之を氷水店の嚆矢とす

太田久好編『横浜沿革誌』(石井光太郎校訂 昭和45年刊 有隣堂)

日本で最初の氷水店が開かれたのは、明治2年(1869年)6月のことです。

馬車道での開業は、たまに外国人が立寄り氷・アイスクリームを食べるぐらいで、日本人は見ているだけでした。経営は失敗しましたが、翌年4月に伊勢山皇太神宮大祭で出店したところ、大繁盛となりました。

氷売りの光景は、横浜開港後の維新期において新しい光景であったことでしょう。神奈川青木町の浄土宗三寶寺の住職で幕末期を代表した和歌人のひとりであった大熊弁玉は、「氷売ひらけゆく世のたまものと商人の市にも室の氷うるらむ」と詠んでいます。

明治期の横浜での氷問屋


明治20年1月
「三ッ澤製氷押尾口入荷帳 真砂町 飯田氷室」(筆者所蔵)

明治期の横浜における氷問屋は、山崎末五郎問屋(真砂町二丁目三十二)と飯田快三問屋(真砂町三丁目四十八)の二軒が知られています(『横浜沿革誌』)。

飯田快三(助太夫)は、高座郡大和村深見の真壁以修の三男として生まれ、明治8年に橘樹郡北綱島村の飯田助太夫広配の養子になりました。その功績の一部として、県製氷組合長、横浜氷業組合長なども歴任し、地方殖産興業の発展に大きな功績を残しました。

この地域の殖産興業の発展に尽力したのが養父の飯田助太夫廣配(1813年〜1895年)でした。特に廣配が取り組んだのが天然氷の製造で、『飯田家三代の俤』の中でこう述べています。

就中幕末明治期にあって製氷業に着眼したことはその達識寧ろ驚くべきものあり、加ふるにその製法を刻苦研究して製氷業今日の基礎たらしめたことは特筆すべきである。

廣配は、都筑郡や橘樹郡の農家が生産した天然氷を横浜区真砂町3丁目の飯田氷室に保存して、開港場の横浜や横須賀などに販売していました。鶴見川中流域における製氷業の基礎を築くとともに、その発展に尽力した人物で、いわゆる明治期の地方名望家のひとりでした。