氷の由来 〜日本における天然氷事業〜

1859年横浜開港以来、幕末横浜の外人居留地に米国ボストンの天然氷が輸入されるようになり、当初は主に外国人の医療用途で使われていました。その経路は過酷を極めるもので、アフリカの喜望峰を大迂回して太平洋から15,000海里もの海原を半年がかりで、アイスマンたちがが野菜不足による敗血症と戦いながら船舶輸送していました。そんなボストン氷は当時、ビール箱の大きさで3両(約30万円)したといいます。この頃、氷事業のロマンを創り出す中川嘉兵衛という大人物が登場します。

中川嘉兵衛の天然氷事業


1817年(文化14年)愛知県三河に生まれた嘉兵衛は、42才で横浜開港の話を聞きつけ、横浜に身を移します。英公使館のコック見習いとしての仕事を通じて、西洋の食文化の流行を予感し、牛肉と牛乳の販売店を開業しました。その後、ヘボン式ローマ字創始者として有名な医師ヘボンとの出会いが、嘉兵衛を氷事業へと駆り立てます。氷が医療用食品保存にきわめて有益であることをヘボンから教わり、天然氷の事業化に着手しました。ただ、その道のりは決して平坦なものではなく、七転八倒の末にようやく成功を掴み取るものでした。

中川嘉兵衛失敗の遍歴
1861年富士山麓鰍沢に165㎡の製氷池を造り、100㌧の氷塊2,000個を採氷して搬出。オガ屑を詰めた木箱に包んだ氷を入れて馬で運び、静岡の江尻港から日本の帆船2隻で横浜へ輸送。途中難航し、横浜に到着した時にはわずか8㌧しか残らなかった。
1863年信州の諏訪湖で、湖水氷の採氷・輸送を試みるも、再び失敗。
1864年日光赤城で採氷し、56里を馬で運び、高瀬川を下り横浜に運ぶも、製造・輸送費を回収できず失敗。
1865年陸中釜石で300㌧採氷し、帆船で横浜へ送るも、約1割の30㌧しか残らず採算が取れずに失敗。
1866年青森県で採氷するも、運搬船が高価な外国船しかなく、費用捻出不能によりあえなく氷を溶解。
1867年全財産を投入し、北海道へ。これまでの失敗の要因を運搬の不備であると分析していた嘉兵衛は、函館にある五稜郭の製氷に適した水質と船便の利便性の高さに成功を確信。米国から技術者を招聘し、北海道開拓使(今でいう北海道開発長官)黒田清隆から五稜郭における7年間の採氷専取権を獲得。採氷するものの暖冬のため薄い氷しかできず、250㌧の氷を横浜に回送して大損失、窮乏のどん底に陥る。

1869年、7回目の挑戦にしてようやく成功を掴み取ります。純良な500㌧の氷を採氷し厚さ40センチの氷に仕立て、外国船で京浜地区に輸送し販売を開始します。ボストン氷との激しい競争になってから、わずか1年で駆逐に成功しました。

その後、事業を台湾、清国、韓国、シンガポール、南洋、およびインドへと広げ、米国からの氷採取機械の輸入も手がけます。その功績などが評価され、内国勧業博覧会の大賞を受賞、宮内庁ご用達にも採用されるまでに至ります。この成功を皮切りに全国的に採氷池が続出し、天然氷事業は普及発展を迎えることとなります。