福沢諭吉の高熱が氷を造る
明治3年(1870年)夏、福沢諭吉が発疹チフスにかかり、連日高熱に苦しむことになります。それを救おうと決起した慶應義塾塾生は、氷の解熱作用に着目します。東京で氷を入手しようと奮闘するものの、時はまだ中川嘉兵衛が北海道で天然氷の採氷に成功したばかりの頃で、苦戦を強いられていました。
そんな中、福井藩主松平春獄公が外国製の小型製氷機を所有していることを塾生がたまたま知り、使い方が分からず放置されていることを聞きつけます。塾生はこれを借り、大学東校(現・東京大学)の宇都宮三郎教授の助けを得て、少量の製氷に成功します。この甲斐あって、諭吉は無事に回復することができました。これこそが、日本における機械製氷の始まりです。
神奈川日冷株式会社
その後明治12年(1879年)に、米国人のアルバート・ウォートルスが横浜の山手に、日本初の機械製氷会社、ジャパン・アイス・カンパニーを設立し、一般向けの販売が開始されました。同社は1881年に競売にかけられ、オランダ人のルドヴィカス・ストルネブリンクによって落札され、横浜アイス・ワークスと改名されました。
大正13年(1924年)関東大震災後新築された現存の最古の製氷工場として有名な旧神奈川日冷株式会社の山手工場がそれで、1999年まで株式会社ニチレイの子会社であった旧・神奈川日冷株式会社の製氷工場として稼動していました。ストルネブリンクはオランダロッテルダムで生まれ、三菱汽船(後の日本郵船)の機関士という当時社会的地位の高い職に就き、名士でした。日本製氷業の父ともいえる彼は、横浜外人墓地に妻ハマと共に眠っています。
東京製氷
日本人による日本最初の製氷会社は明治16年(1887年)東京京橋新富町に建設された東京製氷会社(日産能力6㌧)で、 以後天然氷と機械氷の激しい競争が始まりました。明治22年(1889年)当時の氷価は12貫匁(45㎏当り)五稜郭天然氷で80銭、日光天然氷70銭、神奈川天然氷65銭、そして機械氷だと60銭でした。
明治20年(1887年)7月、皇太子殿下(後の大正天皇)が東京製氷の築地工場へ行幸された時、花氷の製造をご覧になり、大変お褒めになられました。明治天皇へおみやげに花氷を持ち帰り、天らんに供する光栄に浴することとなりました。築地工場はその後宮内庁の指定工場となり、宮内庁専用の製氷タンクを設け、氷を納めることになりました。宮内庁は以後、宮内庁の御用氷は機械氷に限る旨告示し、天然氷に一大打撃を与えました。明治23年(1890年)には滝沢子爵、大倉男爵、浅野総一郎といった財界の代表的名士が青山製氷所を設立し、製氷工場を新鋭事業として急速に普及させることになりました。製氷事業は資本家の投資対象となり、年々各地に製氷会社が設立されるにまで至ります。
製氷戦国時代
明治22年(1889年)五稜郭の貸与規則の変更により天然氷の採取が中止されたことを受け、嘉兵衛も機械製氷時代への移行を看破し、機械製氷株式会社の設立を計画し始めます。明治31年(1896年)にその事業は東京業平橋で産声を上げたものの、嘉兵衛本人は前年の明治30年(1897年)1月4日、東京越前堀の自宅で80年に及んだ人生の幕を閉じました。
東京製氷と機械製氷株式会社は明治40年(1907年)に合併し、日本製氷株式会社となりました。戦略的な販売力を発揮し、地方の資本家によって経営された各地の製氷会社を吸収合併しながら、成長していきます。
その快進撃も、昭和9年(1934年)日本食料工業株式会社に吸収合併されることで終止符が打たれ、日本食料工業もまた共同漁業株式会社と合併して日本水産株式会社となり、全国製氷能力の48%を占めることになります。戦時中の昭和18年(1943年)には、日本水産、大洋漁業、日魯漁業、極洋捕鯨、全漁連などの製氷冷蔵施設が政府により統合され、戦時の食糧確保の国策会社として帝国水産統制株式会社が誕生します。それまでの60年間に統合吸収合併された製氷会社の数は107社で、全国の製氷能力の過半数に達しました。